つながれていない神の言葉

説教題:「つながれていない神の言葉」
聖書:テモテへの手紙 二 第2章8~13節
説教:松島基紀 修養生
賛美:新聖歌316番「御言葉なる」1,2,,4 新聖歌40番「ガリラヤの風かおる丘で」1,2,3,4

 今日開かれた箇所で私たちが注目したいのは9節に書かれている「しかし、神の言葉はつながれていません。」という言葉です。獄中からこの手紙を書いたパウロは、自分が囚われの身であることに失望せず、「神の言葉はつながれていない」ということに希望を置き、苦しみを耐える根拠としました。(10節)これは今日を生きる私たちにとっても同じです。

 では神の言葉が「つながれていない」とは一体どういうことなのでしょうか。ここで使われているギリシャ語の「デオー」という言葉は、縛られている、囚われていると言った意味でも使われる言葉です。つまり、神の言葉は何にも縛られることなく、何にも囚えられることなく、あらゆるものから解き放たれているということをパウロは語ります。

 私たちはパウロのように直接的に鎖につながれることはないかもしれませんが、よくよく自分を顧みるときに、何かしら自分を縛っているものがあることに気づくのではないでしょうか。世の価値観や、自分の社会的な立場、人間関係における自分の立ち位置、そして罪の問題。こうしたことは私たちを縛り付け、キリスト者として歩むこと、喜びを持って生きていくことに対して枷となることがあります。

 そんなパウロに、そして私たちに相対して神の言葉はつながれていないのです。私たちは困難な中にあるとき、神の言葉である聖書を助けや慰めや励ましを求めつつ読みます。しかしどうでしょう。その時々に相応しい御言葉が与えられることもありますが、不思議なことに聖書の言葉を読んでも自分の求めているような御言葉に出会えないということをみなさんも経験したことがあると思います。聖書を読んでも本当に神様は私に語ってくださっているのだろうかと疑念を抱くこともあるかもしれません。

 しかしここにこそ、「神の言葉はつながれていない」ことの真髄があるのです。神の言葉は何にも、それは私たち自身にも、つながれていないのです。私たちが予想できる慰めの言葉、励ましの言葉というのは既に私たちのうちにつながれてしまっている、言い換えるならば制限されてしまっているのです。しかし神の言葉はその予想を遥かに超えたことを語ろうとしています。だからこそパウロも「しかし」と始めるのです。

 十二弟子のペテロもイエス様の「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。」(マタイ28:19)という命令を受けながらも、ユダヤ人にのみ福音を伝えようとしました。「すべての民」という言葉に対して自分で制限をかけていたのです。しかし夢の中で「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」という声を聞き、異邦人のコルネリウスとの出会いを通して、自分の考えを超える福音を改めて知り、異邦人への伝道を始めめたのです。

 私たちも日々御言葉に向き合うとき、自分の求めに聖書の言葉を縛り付けるのではなく、それを超えた神の言葉、何にも縛られていない神の言葉にこそ救いと慰めがあることを信じようではありませんか。

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