悪い時代にあって

説教題:「悪い時代にあって」
聖書:マタイによる福音書 第11章16-24節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌141番「イエス君は」1,2,3,4 新聖歌 449番「父なる御神に」1,2,3,4

 今日の聖書の箇所はイエス様の厳しい言葉が続きます。最初の言葉の「笛を吹いたのに、あなたは踊ってくれない。悲しみの歌を歌ったのに悲しんでくれない」という文章は日本でも「笛吹けど踊らず」という諺として知られています。世の中の人々の無関心さを言われているのだと思います。子どもたちが広場で、さあ歌おうよ、踊ろうよと結婚式のメロディーを吹いても誰も応じてくれない。またお葬式の悲しみの歌をしんみりと歌っても誰も見向きもしない。人々は無関心なのです。バプテスマのヨハネが現れて、神の言葉を語っても人々は「あいつは気が変になっている」と無視し、イエスがやって来て神の言葉を語っても、「あいつは大酒のみの大食漢で低俗な連中と付き合っている」と言って相手にしませんでした。多くの人々は、他者を批判するだけで、自分のことを反省しようとしません。これは現代の私たちの社会も表していると思います。

 イエスはさらに厳しい言葉を語ります。災いだ、コラジン!災いだ、ベトサイダ!この名前は、ガリラヤ地方にある町のことですが、今ではどこにあったのか特定することは出来ません。これらの町々で、病人が癒されたり、精神的に病んでいる人が治ったりと素晴らしい奇跡のわざが起こされました。しかし、多くの人々は自分を改めようとしませんでした。カファルナウムの町についてはもっとも激烈です。カファルナウムはおそらくイエスが最も頻繁に訪れた町で、しばしば、イエスはそこに滞在なさった所でした。

 コラジンやベトサイダは、ツロやシドンという外国の町と比較されています。コラジンやベトサイダでイエスのなされたわざがこれらの町でなされたなら、町中とっくにこぞって悔い改めだろう。カファルナウムはもっと激しい比較がなされます。ソドムという伝説的な悪の町の方がずっとましだというのです。

 主イエスは彼らが悔い改めないことに嘆いておられます。主イエスのメッセージは、「神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい」でした。自分の非や罪を認めて生き方の方向転換をして神の国に従いなさい。という事です。それが何よりもイエスが私たちに求めておられることです。人間にはネガティブな部分は少なくありません。自己中心、暴力、肉欲、支配欲、物欲、また自分の意識しないで犯してしまう罪や咎。しかし何よりイエスが嘆かれるのは私達の頑なさです。自分の非を認めない頑固さです。

  人間はなぜ罪から離れなければならないのでしょうか?神の罰が当たるからですか?神が怖いからでしょうか?いいえ、むしろ罪は私たちにとって不治の病だからです。罪は私達の魂を蝕み腐らせ、不幸にさせ、死に至らせます。何より、罪は命の源である神から離れさせてしまいます。だから、イエスは一刻でも早く悔い改めて神に立ち帰るように求めるのです。ところが、コラジン、ベトサイダ、カペナウムの人たちは病気や悪霊を追い出してもらう事には熱心でしたが、自分たちが変えられるということには関心はありませんでした。自分の罪を認めようとしませんでした。これこそイエスが来られた目的だったのに!イエスが来られたのはただ言葉を語るだけではありませんでした。実際に死にゆく私たちに新しい命を与えるためでした。そのためにイエスは十字架のうえでその命をささげられたのです。だから悔改める事を恐れる必要はありません。自分の非を認めても自分が壊れることはないのです。より新しい命が与えられるのです。悔い改めることの先には、今まで想像もしなかったような新しい命の世界があるのです。

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

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