共にいる牧者

説教題:「共にいる牧者」
聖書:詩篇 第23章1-6節
説教:福島 雅則 師
賛美:新聖歌318番「君はわが身の」1,2,3 新聖歌 206番「飼い主わが主よ」1,2,3,4

主が私の飼い主であるなら、私は不足しているので聖書は語ります。皆さんはそのように自分に満足して感謝しています。

羊と羊飼いの関係においては、羊には欠けている監視ありません。

具体的には「主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる」(2)の残念、私は足りないことがないのです。 水が足りない荒れ野だらけのパレスチナで、牧草と水のある場所に羊を導くことができるのは羊飼いです。 羊は自分で牧草や水を探すことはできません。さらに牧草や水でお腹が満たされないと寝転がったりしません。 良い羊飼いであるイエスは私たちに霊的な食べ物であるみによって私達の魂を満たして下さり、主が共にいる安らぎへ導いて下さいます。

魂を生き返らせるとは、どのような経験でしょうか。 神は御言葉によって私達の魂を生き返し、平安へと導かれます。

「死の陰の谷」と聞きますと、命の危険があるところを歩むことを想像します。 暗黒の谷と読むことも確かにできる。 突然襲い来る自然災害でどれも同様の災害があり、精神的な問題に悩まされたり、事業が中断して借金を抱えたり、人生で暗黒の谷を通る事があるかもしれない。

5節の「苦しめる者の前で、あなたは私に食卓を整えられる」という言葉を若い頃に「変だな」と考えてみました。 口語訳では「敵の前で」ですが、自分を苦しめる敵が迫っているのに、その前で主は食事を準備して食べさせるのです。 敵の前で食事を摂る余裕の心配があります。

主イエスがスピーチで死なれ復活されたのは、罪と死からの勝利を意味しています。 主はあなたのために天の食卓を整え、香油を注ぎ、杯を満たして、喜びと愛に溢れる恵みを与えてくださる協力者です。

主イエスが私の羊飼いですから、命ある限り、どんな時でも、どこにあっても主の慈しみは私を恵みにして私の上に注がれるのです。 恐る恐る、詩人は主の恵みと慈しみに感謝して、「私は主の家に住もう」と言うのです。幕屋・神殿に住まうとは、そこを住居として生活することではなく、感謝のささげものを持ってそこで礼拝することを意味します。私たちは日々の恵みと慈しみに感謝して、教会で礼拝をささげることができます。

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

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