説教題:「しかし主はそばにいて」
聖書:テモテへの手紙二 第4章9-16節
説教:松島 基紀 修養生
賛美:新聖歌112番「カルバリ山の十字架」1,2,3 新聖歌 257番「キリストは生きておられる」1,2,3
このテモテへの手紙Ⅱは、先月お話ししたようにパウロが自分の生涯を振り返り、まことに良い人生であった、と綺麗に締めくくられるかと思いきやそうではありません。9節には「ぜひ、急いで私のところに来てください。」とテモテに対して自分の願いを述べるのです。またそれだけではなく、手紙を書く前後の自分に起こったことを書き記します。そしてそれらは良い知らせではなく、むしろ彼の苦境を示すものが記されているのです。10節や16節では彼の孤独を感じるような出来事が書かれています。
私はパウロがこのようにして、自分の置かれている状況を強がることなく素直に語り、自分の願いを綴っていることに慰めを覚えます。パウロは確かに自分の人生の主権を神様に委ねていましたが、それは神様に操られるようなことではないのです。むしろ自分のうちに様々な願いや思いがあることを正直に認め、それを神様の手に委ねていったのです。
そのような信仰のあり方を示すのがまさに17節の言葉です。「しかし、主はそばにいて、私を強めてくださいました。」この「しかし」という言葉は私たちの信仰において極めて重要な言葉です。
私たちには簡単には受け止められない現実の問題があります。私たちはそのようなものと対峙する時、「神様は私を愛して共にいてくださる。しかし今神様は私のことを放っておかれている」と思うことがあります。しかしここでパウロが語るのは「神は私を放っておかれるように感じる。しかし主はそばにいて私を強めてくださいました。」と語るのです。
このパウロの信仰の姿を見る時に私たちが覚えていたい事は、神の「しかし」は私たちの「しかし」を上回ると言うことです。パウロがこのように言えたのは、どれだけ困難な状況に置かれていたとしても、神が私を見放すことはない、その神の愛を深く知っていたからです。だからこそ、「しかし神よ、どうしてでしょうか」と叫びたくなるような状況の先に「しかしそれでも私はあなたを愛している」と神が語りかけ、自分の人生に働きかけ、救い出してくださる確信があったのです。
そしてパウロは孤独の中でも福音を宣べ伝えることを最後の最後まで貫きました。そのことは彼にとって大きな喜びでした。私たちもパウロとは異なる方法かもしれませんが、苦難を通して主の愛を証するものへと、そして主の栄光を賛美するものへ変えられていくのです。