預言者の死

説教題:「預言者の死」
聖書:マタイによる福音書 第14章:1-14節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌 第4番「子羊をば」 1,2,3,4 第252番「安けさは川のごとく」1,2,3,4

 聖書の最後の預言者とも呼ばれるバプテスマのヨハネは、領主ヘロデによって殺されました。ヘロデの悪事を非難したからです。きっかけは不正な妻のヘロデヤによる差し金ですが、ヘロデも同罪です。彼は後に失脚し、ヘロデヤと共に流刑されます。彼の場合は自業自得ですが、ヨハネは全く、不法で理不尽に殺されました。この後、ヨハネの弟子たちが遺体を引き取って葬ったとありますが、どれだけ悔しかったことでしょう。彼らはそのことをイエスに報告しました。それは、「イエス様、あなたも狙われています。逃げてください。危険です。」と伝えたかったのかもしれません。

 ヘロデはイエスのことをヨハネの生き返りだと妄想し、殺そうと考えていました。イエスがその報告を聞いた後、独りでその場を離れ、舟に乗って、人里離れた荒野に行かれたとあります。それは、ヨハネを失った悲しみの中で独りになりたかったのか、ヘロデの領土から離れる必要があったのか分かりません。どちらかではなく、両方であったかもしれません。ところが、その思惑が外れました。イエスのことを聞きつけた群衆が、あちこちから集まってきたのです。大勢の群衆を見て、イエスは彼らを深く憐れまれました。多くの人たちは病人を連れてきており、イエスは彼らを次から次へと癒されました。この物語の中で唯一慰めを感じられる言葉は、この一言だけ、イエスの憐れみです。

 14章は冒頭からショックを受ける内容です。ヘロデの狂気じみた妄想、それ以上に吐き気を催すような宴会での出来事。昔のことだから、こんな残酷なことが凝ったのでしょうか。確かに首を切って、盆に載せるなどという事を現代人はしません。人権が強調されるようになって、人命は尊いものだと文明社会では言われます。しかし、人間は本当に一人一人のことを大切にするまでに発達したのでしょうか?たった一発で何百万という市民の命を奪う爆弾を造り続け、教育を受けた地位の高い人が無数の人の命を虫けらのように殺しています。一体、人間は個人個人を人間として尊ぶ心を持っているのでしょうか。

 イエスの前にはイエスの後を追ってきた数千人の群衆がいました。彼らを見てイエスは深く憐れまれたとあります。この憐れむというギリシャ語は新約聖書で12回使われ、すべて、イエスと神が主語になっている特別な言葉です。もともとの意味はお腹という意味です。それが動詞になって、お腹が痛む、人を憐れむという意味になったのです。人に同情して胸が痛むと言いますが、ユダヤ人はお腹が痛むと表現したのです。この言葉はルカ福音書の放蕩息子の物語にも使われます。息子が家を出て財産を使い果たして、乞食同然の姿になって家に戻ってきます。それを遠くに見つけた父親は彼のことを憐れに思い(新改訳では可哀そうに思い)、走り寄って、彼を抱き寄せます。この憐れという言葉が同じ言葉なのです。息子がこうなったのは自業自得です。けれども傷つき、心も体もボロボロになった息子を抱きしめたのです。憐れみとはそのようなものです。父なる神はそのような思いを持って私を見てくださる。イエスは群衆の中の一人一人に手を触れて病を癒されました。

 あなたもこの群衆の中の一人であるかもしれません。もしかしたら、自分の兄弟や妻を裏切ったヘロデかもしれません。そのような私たちでもイエスの憐れみのまなざしは向けられています。この世界は、理不尽で、人間の悪や病がはびこっています。しかし、この世界のただ中でイエスは愛をもって私たちを助け、神の国へ導こうとなさっておられます。私たちは方向転換をしてイエスの方に向き直る必要があるのです。

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