説教題:「それぞれ違って、一つの体」
聖書:コリントの信徒への手紙 第12章12~18節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌37番「主よ命の言葉を」1,2 新聖歌392番「主の愛が汝が内に」1,2,3
教会とは、どういう集団なのでしょうか? 教会には私達を集めさせている何かがあります。教会に集まる方々の年齢、職業、学校、出身地はそれぞれ違います。血でつながっているわけでもありません。けれども教会という集団は同じ方向を仰ぎ、同じ何かを見つめている集団であり、自分たちではない何者かによって互いに結び付けられているという事を信じています。
聖書はこの教会という集団を、一つの身体に譬えています。身体には様々な器官があり、それぞれの器官は役割を持って、体を動かしています。この身体というのはイエス・キリストの身体であり、私たちはそれを構成している器官です。一人一人が体の器官だというとまるで機械の一部分、歯車のようで非人間的な感じを持つ人もいるかもしれませんが、そうではありません。これらの器官は有機的なつながりをもっていて、自由な意思をもっていて互いに助け合うのです。25節に、「体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合う為です。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」人間が作る組織というものは無機質的になりがちで、一つの歯車の具合が悪くなれば、取り替えます。一つの歯車が苦しんでも、他の部分が一緒に苦しむわけではありません。けれどもキリストの体は違います。器官が互いのことを配慮し合う体なのです。
さて、身体は目的を持っています。その目的とは、まず、第一に礼拝を捧げることです。礼拝とは私たちが行動を持ってイエス・キリストが私達の主であることを表すことです。実際に私の生活の中で、イエスを主としてお迎えし、主と共に世に送り出されていくことを確かにすることが礼拝です。礼拝を捧げるためにも様々な役割が私たちに与えられています。
第二に教会の目的は交わりです。イエスは私たちに、イエスが愛したように互いに愛するように言われました。私達は主を礼拝するのも、イエスを主として生きていくためにもお互いを必要としています。この交わりは内輪の満足で終わるのではありません。私達は世の光、地の塩としてイエス・キリストをこの世界に向かって証ししていくのです。
また、聖書はキリストの体としての特質を教えています。それは教会は一つの体だぇれども、それぞれの器官は違っているということです。個性とか賜物とかキャラといっても良いでしょう。教会のすべての人がパウロやペテロである必要はありません。それぞれが違うからこそ、一人一人は体の器官としての様々な役割が与えられています。
聖書は「違い」というものを、「格好の悪い」部分と「格好の良い」部分という言い方もしています。部分によってはそう見えるものもあるのかもしれません。「格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。」(23) 口語訳では「見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする」となっています。人から劣っている、見劣りがすると思われるものこそ、神は尊いものとしてお用いになるのです。
教会の交わりは、誰かが痛みを持ったら、共にその痛みを分かち合い、誰かが、尊ばれれば、皆が喜びます。そして私達はキリストの体として外に向かって証ししていくのです。ここに希望があること、神によって私たちは変えられることをそれぞれの役割を通じて伝えていき、実際に世の人々の隣人となっていくのです。