心配しないで、恐れず、ためらわず

説教題:「心配しないで、恐れず、ためらわず」
聖書:マタイによる福音書 第1章 18~25節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌 80番「天なる神には」1,2,3,4、新聖歌 78番「荒野の果てに」1,2,3,4

 マタイは、イエス・キリスト誕生の次第を語る記述で、まずヨセフを登場させています。本メッセージの題は、「心配しないで、恐れず、ためらわず」としましたが、これは夢でヨセフに語られた天使の言葉の日本語の三つの訳語から取ったものです。「心配しないで(口語)、恐れないで(協会共同、新改訳)、ためらわず(リビング)、マリアを妻に迎えなさい。」この言葉によって、ヨセフは一大決心をして、マリアを妻として迎え、イエスの父親となり、家庭を守ることになるのです。ヨセフはマリアが公け(さらし者)にされないように、ひそかに離縁しようと決心したとありますが、まだ彼の内には迷いがあり、嵐が渦巻いていたのに違いありません。

ここで現代人には理解しがたい難問があります。処女降誕という信仰です。マリアはヨセフと婚約をしていましたが、まだ一緒に生活はしておらず、ヨセフには身に覚えがないことでした。妊娠したとしたら、他の男性と関係を持ったとしか考えられません。しかし、天使のメッセージは、マリアは聖霊の働きによって子を宿したという事でした。神の御子は人と全く同じ体をお持ちになりました。けれども、神が人となるという宇宙始まって以来の最大の奇跡は、やはり奇跡的な誕生の仕方だったのです。創世記のアダムの体に聖霊(神の息)が吹き込まれて生きた者となりました。同じ力がマリアの胎内に働き、この存在が人類の救いとなったのです。

今の私たちは考えて信じることも出来ます。けれどもヨセフにとっては寝耳に水でした。どう考えても、マリアが他の男性と関係をもったとなるでしょう。彼の心を動かすには、特別なメッセージの伝え方が必要でした。夢で神はヨセフに語られたのです。夢は私たちの心の中で見るもので、現実ではありません。けれども心の経験の何かを表しています。時には自分の意識しない深層心理の中を表します。聖書は、神は私たちの心の深いところに語りかけられることを描きます。ヨセフの心の内には恐れがありました。私たちにも恐れているものがいくつもあると思います。決断できないでためらっているものの何と多いことでしょう。しかし、実に神が私達とお会いするところはそこなのです。神は私たちに恐れるな、心配しなくてもよいと言われます。迷いの只中で、神は私たちに語られるのです。

ヨセフはこの後、イエスが12歳の時に、もう一度だけ登場します。それ以降の記述はありません。イエスが30になる頃には亡くなっていたのだろうと言われます。しかし、子どもたちがある程度成長するまで家庭を守っていたことは間違いありません。敬虔に誠実にマリアと寄り添い、イエスと子どもたちを育てたのです。大きな危険がイエスが生まれて間もなく家庭を襲いました。猜疑心に狂ったヘロデ王の追手から逃れるために夜のうちに荷物をまとめて、3人でベツレヘムを脱出しました。その時のヨセフの存在はマリアにとってどれほど心強かったことでしょう。彼らはエジプトに逃れ、安全になるまで暫くそこで生活するのです。大工であったヨセフはその職を生かして家族を支えたことだと思います。神は御子を生まれさせ、守るためにマリアを選び、ヨセフを選ばれたのです。

「ダビデの子、ヨセフよ」と天使は個人的に語りかけました。「恐れずに」という言葉を私は「安心して」と言い換えて良いかと思います。私たちにも神は語られます。私たちは大きな神の救いの計画の中に加えられています。私たちは孤独ではありません。神は私達と共におり、安心して前に進むように励ましてくださるのです。

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