静かにささやく声で

説教題:「静かにささやく声で」
聖書:列王記 第19章 1~13節
説教:角田 利光 師
賛美:新聖歌190番「静けき祈りの」1,2,3 新聖歌202番「一度 死にしわれをも」1,2,3,4

 エリヤは預言者の中の預言者と言われた人物です。神さまから大変用いられ、彼を通して次々と大きな奇跡を行いました。特に彼の華々しい活躍はカルメル山で行われたバールの預言者450人との対決に見られます(18:16-40参照)。450対1と数の上では圧倒的に不利な中、主なる神はエリヤの祈りに応えてくださり、天から火を降らせ、見事勝利を得ました。対決の後、バールの預言者は全員剣で殺されてしまいました。その事を知ったアハブ王の妻イゼベルは狂ったように激怒し、エリヤに殺害命令が下されます。すると「それを聞いたエリヤは恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃げ出し、」(3)ます。あれだけ力強い神さまの業を成し、神さまの代弁者として容赦なく国の王にも偶像礼拝を止め、悔い改めを迫っていた神さまの器エリヤでしたが、たった一人の王妃の言葉を恐れ、まるで臆病風に吹かれたようにどん底を経験することになります。彼がいたイズレエルからベールシェバまで直線距離にして約150キロを命からがら逃げたのです。エリヤはよっぽど怖かったのでしょう。精魂使い果てて彼はこう祈ります。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」(4)多くの説教者や学者たちは、エリヤはこの時、鬱状態だったのだと言っています。エリヤは本当に辛かったのだろうと思います。不安で切なくて苦しくて心細くてたまらなかったのだろうと思えてなりません。生きている事自体が不安でたまらない。生きていく自信がない。夢も希望も全くない。その心細さといったらたまらないものがあったでしょう。この不安を味わい続けながらこれからずっと生きて行くなんて気が狂いそうだ。だったら神さま、いっその事今ここでこの私の命を取ってください。もう充分、一刻も早く私をあなたのみ許に引き上げてください。そんな張り裂けんばかりのこのエリヤの心の叫びと祈りがこちらに伝わってきます。

 しかし、どうしてエリヤはこれほどまでに落ち込んでしまったのでしょうか。イスラエルの王や民たちは依然バアル礼拝を放棄しないままでした。おそらくエリヤの中には「これだけやってもダメだったか。」という絶望感、孤独感、無力感を味わっていたのではないでしょうか。これだけやったのに感謝されない。こんなに尽くしたのに分かってもらえない。伝わらない。信じてもらえない。逆に恨まれてしまう。自分一人がこんなに頑張って耐えているのに、もう限界だ。生きているのが辛い。死んでしまいたい、いっそ殺してくださいと神に祈ったのだと思います。そんな死を切望する侘しい彼に神さまは御手を伸ばしてくださって、触ってくださいました。もちろん光り輝いていたエリヤの側にも神さまはおられました。しかし、一方どん底にいるエリヤの側にも神さまはおられたのです。神さまはまず疲労困憊しているエリヤに充分な睡眠を与えられました。そして2回も御使いを遣わし温かい焼きたてのパンと水を飲ませたのです。とても感動するシーンですね。心がしんどくて辛くて苦しくて切なくてたまらない時というのは、どんな励ましよりも愛のこもった温たか~い食べ物がはるかに優って人の心を支えるということを、神さまはご存知だったのです。

 力を得たエリヤは、さらに「四十日四十夜歩き続けて、人里離れた辺境の地ホレブ山の洞窟に入ります。」(8)もちろんその間も神さまはエリヤと一緒にいてくださいましたが、あれほど活躍していた預言者エリヤが最後には山の洞窟に身を隠すのですから、華々しく活躍していたあのエリヤの姿は全く見受けられません。本当に惨めな人間がそこにいるだけです。私たちも同じ人間として大小強弱の差はそれぞれあるにしても、エリヤが味わった洞窟体験は長い人生の中で誰にでも一度は経験があるものではないでしょうか。華々しさなど1ミリもない。人を避け一人侘しくただそこに居るだけの自分、生きる意味も自分の存在理由も分からない。ただただ身の置き場の無い居心地の悪さだけが果てしなく続く、何度味わっても辛いものがあります。

 しかし、そんな失意のどん底にいる彼に神さまは、「静かにささやく声で」語られます。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」(9)エリヤ、何をそんなに思い悩んでいるんだい。エリヤ、お前の居るべき場所、働きの場所は本当にここでいいのかい。心を騒がせないで静まってもう一度私の声を聴き、従いなさい。天のお父様ですからなおの事、我が子を思う親のように優しく話しかけます。すべてを失い不安にかられて現実から逃げる彼を気づかい、エリヤの存在のみに焦点を当てて関心を寄せられる天のお父様の温かい眼差しをここに感じることができます。エリヤは苦しい胸の内を正直に2度も打ち明けます。「私はこんなに熱心に神さまに仕えてきたのに、イスラエルの民は預言者たちを殺し、たった一人残ったこの私の命までも奪おうとしているのです」(10、14)エリヤの話を黙って聴いていた神さまは言われます。「出て来て、私の前に立ちなさい」(11)大丈夫だよ。私はいなくなったわけじゃないんだよ。ほらこうしてあなたの前にいる。あなたの目の前にいる。あなたを一人にしない。だから安心して私の前に立ちなさい。そんな神さまの思いが伝わってきます。

 さて11、12節には不思議なことが書かれています。「山を裂き岩を砕くほどの大きな強い風の中に主はおられなかった。また地震や火の中にも神はおられなかった」と言っています。一体これは何を意味しているのでしょうか。これはエリヤがかつて天から火を下したり、そういった数々の華々しい奇跡、主の御業を暗示しているのだと言われています。端的に言えば、神さまは華々しいエリヤの過去の栄光の中にはもうおられない、神さまの臨在は静寂の中にこそ現れるということを示しています。「火の後に、かすかにささやく主の御声」((13)がありました。エリヤは静寂の中で、ささやくような、しかし魂の奥底に響き渡る神さまの力強い御声を聴きました。逃げて来た道を引き返して、新しい北イスラエルの王の任命とエリヤの後継者を育てるという、新しい務めが与えられたのでした。エリヤ自身が選んだ道は絶望と死に至る道でした。その同じ道を神さまは新しく生きる命の道へと造り変えてくださったのです。

 19章の最後に神さまは、「私はイスラエルに7千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である」(18)とおっしゃっています。エリヤがどん底の中にいるときに見失っていた「ささやく声」の存在です。この中には次の新しいイスラエルの王やエリヤの後継者がいたことでしょう。声は小さくても、口数が少なくても、口下手であっても、神の御業はこのような忠実な人たちによってこれからも成されていくのです。「静かにささやく声で」主はお語りになります。あなたは一人ではない。あなたは孤独ではない。よく見てごらん。あなたの周りには、教会にはこんなに多くの神の家族がいる。主にある兄弟姉妹がいる。あなたの前には主である私がいる。あなたは一人ではない。

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