説教題:「力は神から来る」
聖書:士師記 第16章 15~17節
説教:角田 利光 師
賛美:新聖歌298番「主に任せよ」1,2 新聖歌297番「神はわが力」1,2,3,5
サムソンは士師記に登場する12士師の一人で、怪力の持ち主として有名な人物です。母親の胎内にいる時から、神さまによって聖別されたナジル人として生まれ、育てられました。ナジルとは、“主に捧げられた聖なる者”という意味で神に特別な誓願を立てた人のことです。葡萄酒を飲まない。死体に近づかない。自分の頭の毛を剃らない(民6章)。髪の毛というのは、命が外側に現れ出てくる、そういう象徴として考えられています。神が与えられた命に人の手を加えないという象徴的な意味があります。国を導く王のように大きくはないのですが、イスラエルの人々を導いていく役目を司っているさばき司という人物です。
【力の強さと心の弱さを持ったサムソン】
彼と戦いを交えれば勝ことのできる者はいません。サムソンは自分自身が腕っぷしが強く一番に先頭に立って戦いを交えて勝ちを治めて行くそういう人物だったのです。そんな彼にも弱点がありました。それは女性に弱く、良い所を見せたいという面です。ここであの人、そこであの人、とっかえひっかえ自分の心が引かれていく、そして目の前に立つ女性に対していいところを見せたい、悪い所は見せたくない、NOと言えない。敵に対しては強さを自慢して誇っているものの女性の前では弱く言いなりになる。そんな面があったのです。
【デリラとの出会い】
そんな彼が出会うのが、ペリシテ人の女性デリラです。デリラがサムソンと親しくなったのを聞きつけた敵のペリシテの指導者たちがデリラのところに来ます。そして高額な報酬を支払う代わりにサムソンの力の秘訣を聞き出してくれ、それで縛り上げて捕らえようと考えるわけです。
【デリラの誘惑】
彼女はサムソンに対して言い寄って行きました。そして力の源はどこにあるのか教えてくれと言います。良いところを見せたい。そして女性に対してNOということが出来ないサムソンなので、何か言わなきゃいけない、でも本当の事を明かす訳にはいかない。そこでサムソンは3回に渡り、デリラに苦しい言い訳をし、決して自分の本当の秘密を彼女に明かすことはありません。
【サムソンの妥協】
「私を愛していると言いながら本当のことを教えてくれないし、これは一体どういうことなんですか」毎日毎日サムソンにせがみ、そして責め立てます。サムソンにとっての脅威は敵が力強い事ではありませんでした。彼の弱さに迫ってくるもの。私を愛しているなら、その証拠を見せろと詰め寄って来る、その彼女の言葉による誘惑が彼には死ぬほど辛かったし、死ぬほど苦しかったのだと思います。彼の心は揺れ動きます。
【誘惑に負けるサムソン】
ついにその日がやって来てしまいました。サムソンは自分の秘密をみな彼女に話します。サムソンはこれで誘惑から解放されたわけです。しかしそれは、力の源は神にあるということを手放して放棄することを意味していました。母の胎内にいる時から、今日まで神の力をもって生きていた、今まで特別な人として歩んでいたのは強かったのは、神の御力が約束されていたからでした。しかし、サムソンは誘惑に負けて、神に従うことはできなかったのでした。
【神のさばき】
サムソンは力の源を明かした結果、デリラの膝の上で眠らされ、そして束ねていた神の毛7房を切り落とされ、その時神の力が彼を去ります。その結果サムソンはペリシテ人に捕らえられます。両目をえぐり取られ、青銅の足かせを付けられ、牢獄に入れられ臼を引くように労働させられます。ペリシテ人はサムソンを捕らえたことに喜びを覚えて宴会を開いていました。彼らはサムソンを見世物にしようと牢獄から彼を呼び出し、宮を支えている大きな2本の柱の間に立たせました。向こう側にワイワイガヤガヤ自分をいいように言って生やし立てるその人々の前に連れ出されます。でも彼の目には誰がそこにいるのか分かりません。どれほどの多くの人がいるのかも分かりません。ただ分かるのは無力にされた自分は、その目に晒され、いいように見られて、そして馬鹿にされ、あざけられ、今まで力を誇ってきた自分にはありえない姿でそこに立っています。
【悔い改めの祈り】
その彼が主に呼ばわってこう言いました。「主なる神よ。どうか、私を思い起こしてください。神よ、どうか、もう一度私を強めてください」(28)。彼は神の力が自分を去るまで、神さまとこのような深いやり取りはそこまでなかったのです。しかし、弱くされた今、彼は心から主を呼ばわって言いました。「主なる神よ、どうか私を御心に留めてください。ああ神よ。主なる神よ」と親しく懇願して呼びかけるサムソンの姿です。今まで力を誇ってきたときには見られない姿でした。神を呼ばわらなくても自分には力があると勘違いしていたからです。でも今となっては、「ああ神主よ。どうぞこの一時でも私を強めてください」彼は主なる神に悔い改め、救いを求めます。結局どこから力が来ているのか。自分の力ではない。その力は神が与えてくださったもの。小さい時から約束されていたものでした。
【回復と最期】
心の弱さを通して結局サムソンは、自分は神の力によって生かされているんだという原点に戻ったわけです。自分の持つ力はどこから来るのか。「力は神から来る」ことを、彼はどん底の中で知ったのです。どれだけ大きな事を成してきても、どれだけ多くの敵を倒してきても、結局のところ彼は最後に、「神よ。どうぞ私に力を戻してください」(28)と主に叫びました。大きな柱右と左そこに寄りかかっていた彼は手をグーっと思い切り伸ばしその柱をたぐり寄せるようにしてその柱を倒していきます。宮全体が音を立てて崩れていきます。そこにサムソンを物笑いにしていた大勢のペリシテ人が、がれきの山の下に崩れ去り命を落としていきます。サムソンが生きている間に倒したよりも、神の力によって敵を退けた数の方が多かったと記されています(30)。
【結論】
力はどこから来ているのか。「力は神から来る」それがサムソンが最後に立ち返ったところでした。サムソンは誘惑に負け、神さまに従うことができませんでしたが、私たちも変わらず弱い存在です。自分の力、我力で誘惑に勝つことはできません。だからこそ、いつも神さまと一緒に歩む必要があるのではないでしょうか。苦し紛れに言い逃れをして、もう本音を言ってしまって解放されようとしたサムソンでしたが、私たちを責め立てて来る誘惑から本当に解放してくださるのは、神さまの御力です。私たちはサムソンとは状況は異なりますけれども、何か足に重石をつけられたような重い足取りで、暗闇の中を誰かに支えられなければ一歩も歩くことができないようなそんなしんどい経験をさせられることがあります。毎日の生活の営みの中で、誰かに八つ当たりをして叫びたくなる、怒鳴りたくなる場面が多々あります。そのような時にこそ、「主よ。私を助けてください」と祈れることはなんと幸いでしょう。朝起きるにも力が要ります。身支度、掃除、洗濯、通勤、通学、様々なところにおいて力を必要とします。一見するとすべて自分が担うことのように思えますが、実はその力の源は神にあります。神さまの御力はこの私を通して、どんなところにも働いてくださいます。一切の力は神さまから来る、このことを信じて、今週も神さまと一緒に歩んでまいりましょう。