説教題:「クリスマスなんて大っ嫌い/喜びと悲しみのクリスマス②」
聖書:マタイ福音書 第2章1-18節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌80「天なる神には」1,2,4 新聖歌75「神の御子は」1,2,3,4 新聖歌76「諸人こぞりて」1,3,5
クリスマスは本来喜びの時ですが、世の中にはクリスマスがあまり好きでない人々もいらっしゃいます。牧師や信徒の中にもクリスマスが近づくと憂鬱になる人がいるかもしれません。欧米では自殺をする人の数がこの時期、ピークを迎えるのだと言います。日本でも、年末から年始にかけて高齢者の自死が多くなるのだそうです。人生の辛さや孤独が身に沁みる時期なのかもしれません。
聖書に記されている最初のクリスマスに関しても、この日が耐えられないほどの苦しみの日になった人々がいました。ベツレヘムの町で子どもを殺された親たちです。わが子を殺された母親(勿論父親だってそうだったはず)の悲痛な叫びがエレミヤの預言の言葉の中に現れています(18)。子どもを亡くした親はどんな慰めの言葉も受け付けられません。この親たちは毎年、この時期になると辛くなったことでしょう。ヘロデ王を呪い、兵士を呪い、神を呪ったかもしれません。また忘れがちですが、加害者の兵士たちにも辛い時だったと思います。彼らだって血も涙もないロボットではなく、人の子であり、人の親であったことでしょう。泣き叫ぶ親から子どもを引き離し、剣で刺し殺す。憎い訳でも何でもない、ただ命令だから殺す。戦争帰りの兵達たちがトラウマで苦しむことはよく知られています。ベトナムやイラク戦争から帰ってきた兵士たちはとびぬけた割合で自殺をしていたり、家庭崩壊が起こったりしています。ヘロデの兵士たちにも家族はいたことでしょう。ベツレヘムのことを思い出すたびに辛い思いをしたかもしれません。
勿論、クリスマスは第一に喜びの日です。天使は羊飼いたちに「全世界の民に大きな喜びを知らせる」と告げ、東方の博士たちは星に導かれて幼子のところにたどり着き、大きな喜びに溢れたとあります。忘れてはならないのは、クリスマスは、神が私たちと共に居られるしるしであり、希望であるということです。しかし、クリスマスは何事もなく平穏無事な中で起こったのではありませんでした。
先週も申し上げましたが、神が何故このような事が起こるのを許されるのか分かりません。昔のことだけではありません。現代でもこのような悲劇は起こっています。ベツレヘムからいくらも離れていないガザでも毎日のように理不尽な状況の中で人が死んでいること。しかし、私達が分かっているのは、神はこの世界と人類を見捨てず、このような残酷で危険な世界へ、その独り子を送られたということを聖書が証ししている事です。神がなさったことはこの世を愛して、この危険な世界に御子を送って下さったことです。それは神が私達人間と共に居るためでした。
マタイの福音書には三つの殺人事件が記されています。一つはこのヘロデ王による幼児虐殺。二つ目はそのヘロデの息子によるバプテスマのヨハネの殺害。この人はイエス・キリストの少し前に現れて世にイエスのことを紹介した人です。そして三つめは同じくヘロデの息子がかかわったイエスの殺害です。イエスの十字架刑です。難を逃れたイエスは30年後に人類の罪を担って十字架にかけられて殺されたのです。幼児の時には未だ殺される訳にはいきませんでした。しかし、30年後に預言の通り十字架で死なれたのです。神は、その時、ベツレヘムでわが子を失った母親の悲しみを担われたのでした。神はご自身の痛みをもって独り子を救い主として私達のために世に送られたのです。先ほど引用したエレミヤ書には次のような語で続きます。「主はこう言われる。あなたの泣く声を目の涙を抑えなさい。あなたの労苦には報いがあるからだ。彼らは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある。子らは自分の国に帰ってくる」(31:16,17)。この地上のどんな悲劇も神は希望を与えられるのです。