説教題:「イエスとつながることと愛すること」
聖書:ヨハネによる福音書 第15章5-12節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌20「主の真実はくしきかな」1,2,3 新聖歌208「イエスは愛で満たす」
今日は「私の愛にとどまりなさい」という言葉に注目し、イエスの愛の背景には主イエスとつながるという大事な経験があることを学びたいと思います。聖書の「つながる」という言葉と「とどまる」という言葉は同じです。一体、愛するということはつながるということであり、その人のところから離れるのではなく、とどまるという事です。イエスの愛にとどまるとはどういうことでしょうか。私はこの文脈から二つのことが考えられると思いました。一つ目はイエスの愛を信じ続けること、二つ目は互いに愛し合うことです。
イエスは、「父が私を愛したように、私もあなた方を愛した」と言われました。どんなことがあっても、この愛を信じ続けることです。けれども逆境の中ではイエスの愛にとどまることは困難になるかもしれません。先の震災で、多くの人が大変な状況の中にいらっしゃいます。ある50代の男性は4人のお子さんと奥様を一瞬に亡くされたそうです。男性はたまたま近くにいなかったので、助かりました。ご自分は死んだ家族のためにも頑張って生きなきゃいけないとも仰っていました。強い方だと思いました。私だったらどうだろうと思いました。最悪の事が起こると私達は人生の最悪のことしか考えられなくなります。しかし、神の見えない力が働くと、困難な中でも良きものが与えられていることに気づくようになります。奪われたものとは別に、与えられているものにも気がつくようになるのです。そこから神の愛にとどまる心が生み出されてきます。そして私達は希望を見出して生きることができます。
またイエスの愛にとどまるという事は、イエスの戒めを守ることだとイエスは言われました。戒めとは「イエスに愛されたように互いに愛し合うこと」です。それによって私達はイエスの愛にとどまるのです。自分が愛されているという経験は、他者を愛していくことに広がっていきます。一昨年のクリスマスに「靴屋のマルチン」というトルストイ原作の絵本の朗読の動画を配信しました。マルチンは靴作りの職人で、奥さんと一人息子がいましたが、流行りの病で相次いで亡くしてしまい、独りぼっちになってしまいました。彼は教会に行くこともやめて、人付き合いも悪くなり、ただ黙々と何も感じないように靴を作って日を過ごしていました。しかし、教会の牧師さんの勧めもあって聖書を読むようになり、彼の心は少しずつ変わっていきました。ある晩、彼は夢の中でイエスの言葉を聞きました。「明日、あなたのところに行くから」。彼は疑いつつも、翌日、熱いお茶やパン、スープの準備をして待っていました。しかし結局イエス様は現れないのです。しかし、代わりに、雪かきをしている近所のステパノ爺さん、薄着で寒そうにしている若いお母さんと赤ちゃん、言い争いをしていたリンゴ売りのおばあさんと小さな男の子と出会います。マルチンはその都度、彼らを家に招き入れ、イエス様のために用意していたお茶やスープをご馳走します。彼らは喜んでマルチンにお礼を言って出ていきます。夜になって店を閉め、「結局イエス様は来られなかったな」と少し寂しい思いの中でいつものように聖書を読んで寝ようとすると、突然昨夜の声が聞こえてきます。「マルチン、今日は世話になったね。ありがとう、とても嬉しかったよ」彼は答えます。「ええ?いついらっしゃいましたか?いつ私がお世話をしましたか?」すると、今日出会った人達の姿が幻となってマルチンの前に現れました。「あなたが親切にしてくれた人たちは全部私だった。私はいつもあなたと共にいる。」それを聞いたマルチンは暖かい喜びで心がいっぱいになったというお話です。これは童話ですが、聖書の「これらの最も小さい者にしたのは、すなわち私にしたのである」というイエスの言葉の真理を現しています。私が愛する時に、神は共におられます。人を愛することはすなわちイエスご自身を愛することなのです。
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