説教題:「奉仕する時には」
聖書:マタイによる福音書 第6章51-4節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌1「いざ皆きたりて」」1,2,3,4 新聖歌398「新しき地に」1,2,3,4
6章1節から18節には3つのこと、施しをすること(お金を困っている人に捧げること)、祈ること、断食をすることが記されています。イスラエルでは日常の生活の中でこの三つの信仰の行為が教えられていました。これらは単なる義務ではなく、父なる神との関係を豊かにするためのものでした。
主イエスはまず自分の義を見られないようにしなさい(1)と言われます。人には信仰の行為を人に見せるためにしてしまう誘惑があるのです。昔、裕福な人たちは人に施しをする時、大通りでラッパを吹いて貧しい人々を集めて施しをしたのです。初めは人に見せる目的ではなかったでしょう。けれどいつの間にか、自分の名誉や名声のためにそれをするようになっていたのです。
そういう私は人目を気にする方です。人からどう見られるかで自分の価値を判断してしまいます。ですから人から認められると舞い上がり、人から認められないと即座に落ち込みます。私達人間には愛されたいという強い欲求があります。そしてこの世界では人から承認されたり、人に称賛されることによってその愛を確認します。けれども、主イエスはそこにある落とし穴を指摘されるのです。何か良い、素晴らしい事をする時に、その本来の目的のためではなく、人から認められるためという目的になっている事です。自分の行為を振り返るとき、良い点もあるしあまりよくない点もあるでしょう。しかし、それは自分自身の価値には関係のない事なのです。私達の価値は神に愛されていることにあります。神は良い点も悪い点も全部ご存じで私を愛して下さるからです。神は私は褒められている時も愛して下さっているし、批判されている時も愛して下さっています。
けれども、私達はその愛から外れる時に自分の心は上がり下がりし、揺らぐのです。私にもそのような弱さがあります。牧師には特にそのような誘惑が働くのだと思いますが、説教する時も、牧師としての働きをする時も、実はそのような称賛されたいという葛藤が私の内にはあるのです。自分の動機はどこにあるのかと、いつも神に問われます。自分はそもそも何のためにこの奉仕をするのか?魂が恵みを受けて救われ、癒され、成長することです。私は精一杯にその御用に携わる時に神は喜んで下さいます。人の称賛は付属するものです。ある時もあるし、無い時もある。教会のすべての奉仕がそうです。時には誰にも気づかれずに一人黙々とする奉仕もあるでしょう。人から見られる奉仕もあります。神の前にはすべて等しい尊い奉仕です。
イエス様は施し、祈り、断食という奉仕は出来るだけ隠れてしなさいと仰いました。神は隠れたところにおられて、隠れたことを見ておられるからだと繰り返し仰っています。それが何故大切かというと、それが人から認められたいという欲求から解放されて、神との二人の親密な関係の奉仕になるからです。今、お休みにしている「エクササイズ」という本を使っての学び、(春から再開したいと思っています)の2巻の8章の宿題に「人に知られないように人の助けとなるような何か一つしましょう」というのがありました。これは人に見られるためではなく、隠れたところにおられる神のため、人の幸いのための奉仕の心を養うためです。神との交わりの中で祈りつつ奉仕をするのです。「神さま、自分は今トイレ掃除をしています。どうか、このトイレを使う人の健康が守られますように。」と祈りつつ行うのです。人から見られる時でも、見られない時でも神は、あなたのすることを見て喜んで下さいます。上手くいく時も行かない時も、あなたが心から神の祝福を願って奉仕をする時に、神は大きな報いを与えて下さるのです。