説教題:「ひとり、イエスに触れる」
聖書:マタイによる福音書 第9章18-26節
説教:齋藤喜樹 師
賛美:新聖歌23番「父の神よ 夜は去りて」1,2,3 新聖歌300番「御恵み靜けき」1,2,3,4
人に触れるということは、人の温かさに触れることです。イエスへの信仰を持つという事は、ひとりイエスの前に出て、イエスに触れるという経験です。イエスのところにユダヤ人の指導者がやって来て、イエスに願います。たった今、私の娘が亡くなりました。手を置いてやってください。そうしたら、娘は生きます。」 イエスは父親の必死の思いに動かされてすぐに立って出かけます。
その途上で不思議な出来事がありましたが、それは後から見ましょう。家に着くと何やら騒がしかったようです。笛吹く者や当時一般的であった「泣き女」という職業の人もいたようです。イエスはそれをご覧になって、騒ぐのは止めなさい。少女は眠っているだけだと言われました。人々はそれを聞いてイエスを嘲笑したとあります。イエスは彼らを外に出し、少女の両親と弟子たちだけを伴って家の中に入りました。彼らは群衆と違ってイエスへの大きな信頼をもっていました。イエスは少女の手をしっかりと掴んで、死から引っ張り返したのです。
さて、少女の家に行く途上で、イエスはもう一人の女性に会っています。その女性は病人で、出血が止まらない何らかの婦人病を持っている人でした。彼女はその病のために公然にイエスと会うことが出来す、群衆にまぎれて後ろからイエスの衣に触れました。触れるだけでも治るかもしれないと思ったからです。イエスに触れた瞬間、この女性の病は癒されました。イエスもそれに気づき、振り向いて彼女に言われました。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治したのです。」 このイエスの言葉は単なる挨拶でも、おまけでもありません。イエスの癒しの核の部分はこのイエスの言葉にあると思います。一体信仰とは何でしょう?女性は、イエスの衣に触りさえすれば、治ると思いました。もちろん、衣自体に力が備わっているわけではありません。女性が触れたかったのはイエスご自身であり、イエスの愛、慈しみでした。彼女を癒すとしたら、それはイエスの愛です。彼女の信仰はそのイエスの愛にすがる信仰でした。
この女性は、何故自分が12年も難病で苦しまなければならなかったのかわからなかったでしょう。世の中は理不尽なことが多く起こります。けれども、その中で彼女は父なる神の慈しみを信じ、イエスにすがりつこうとしたのです。少女の父親もそうです。何故こんなに幼い子どもが死ななければならないのかわからないけれども、父親は信仰を持つことを選んでイエスのもとに来たのです。
イエスは病の女性のその行為を「信仰」と呼ばれました。実際に女性の信仰の力が治したのではなく、イエスの力が治したのは明らかです。しかし、信仰とは受け皿です。神の力を受け取る受け皿です。常に神の恵みは私達の上に注いでいます。私達は信仰という受け皿をもって、豊かに神の恵みを経験することが出来るのです。確かに信仰を持ったから、災いが起こらないという保証はないかもしれません。しかし、信仰を持つ者だけが味わう恵みの深さがあります。この女性の病気は治り、少女は新たに命を頂きました。しかし、彼女の信仰は一時なものではなく、なお生き続けます。そして父なる神はその信仰を通して、彼女たちを生涯に渡ってを救い続けられるのです。