説教題:「あなたが信じた通りになるように」
聖書:マタイによる福音書 第9章27-34節
説教:齋藤喜樹 師
賛美:新聖歌20番「主の真実はくしきかな」1,2,3 新聖歌283番「主よ わがそばをば」1,2,3,4
今日のみ言葉の「あなたの信仰の通りに」という言葉を「信じた通りに」という言葉に言い換えました。信じるという行為は人間にとって大切な、そして基本的な行為です。本当に何も信じられなくなったら、生きる意味さえ失ってしまいます。
先週の祈祷会では、短期宣教師のムーアさんが証をして下さいました。ご自分たちがなぜ日本に来たのか、今、日本で何をしているかを楽しく話してくださいました。今回ご一家は、3か月間、日本にいて様々なご奉仕をしてくださっています。ご家族全員とてもフレンドリーで親切で熱心です。また飛びぬけに明るくて積極的なのです。何かアメリカ人の良い部分が全部凝縮されてこの家族にあるという感じです。明らかなことは、このご家族は何か大切なものを信じている事です。それは彼らに希望を与え、生き生きとした力を与えています。それが私たちの信じている事と共通したものであることを大変感謝しています。
二人の盲人が、通りでイエスに「私たちを憐れんでください」と叫び続けました。イエスはすぐにはお答えにはならないで、家の中に入っていきます。二人もイエスの後について家の中に入っていきました。イエスが中で腰を下ろすと二人はイエスのそばまで来ました。イエスはおもむろに聞かれます。「私が本当にできると信じているのか?」その質問は言うまでもなく、私があなたの目を癒せると本気で信じるのかということです。二人は直ぐに、声を揃えるように「はい、主よ」と答えたのです。
イエスは二人の目に触れて、「あなたの信じた通りになるように」と言われました。「信じた通りに」です。厳密に言うと、信じていなかったら、そうならなかったということかもしれません。信じるという行為にはそのような面があります。もちろん何でもむやみやたらに信じさえしたら何でもなるという事ではありません。しかし、世の中のことに失望し、どうせ何をやってもだめだと思っていたら、実際にそうなってしまう可能性が高くなります。反対に前向きに希望をもって進んでいたら、実際に物事が前進するということも実際に起こるものです。目の病気が治るという信仰は、イエスに問われて初めて意識したのかもしれません。信じるか?と問われた時に、「ハイ、イエス様、あなたが私を救って下さることを信じます。」
先週、信仰とは恵みを受け取る受け皿だと申し上げました。自分の信仰で人生の道を切り開くというのではありません。神の力がそれをするのです。信仰はその力を受け取るのです。イエスは、二人に病気が治された事を言い広めてはならないと厳しく言われました。イエスは体の癒しではなく、信じるということの大切さの方を重要視されたからです。
実際にイエスの奇跡を見ても、白けている人々もいました。この後、口がきけない人が連れてこられ、イエスはその人がものが言えるようになさいましたが、ある人々は、イエスが悪魔の力によって病気を治しているのだと言いました。非常に偏っていて歪んだ考え方です。彼らはどんなに良いことが起こっても、それを感謝しようとしませんし、信仰に繋げることがありません。彼らは、どんなに明るいところに連れ出しても顔を手で覆い、暗い暗いといって嘆くことでしょう。顔から手を放してごらんと言っても放そうとしないのです。反対に二人の盲人は目が見えないのに、信じるという光を見ることができました。
私たちはこの二人の盲人です。イエスに向かって「主よ、憐れんでください」と叫んでいる二人です。イエスについて家の中まで入っていきました。イエスはあなたに「それを私ができると信じるか」と問われます。「はい」と素直に答えたいと思います。