イエス・キリストのよみがえり

説教題:「イエス・キリストのよみがえり」
聖書:コリントの信徒への手紙 第15章1-8節
説教:齋藤 喜樹 師
賛美:新聖221番「ああ主の瞳」1,2,3 新聖歌 257番「キリストは生きておられる」1,2,3

イエス・キリストのよみがえりは、キリスト教最大の一時であり、最大のつまずきであると言えます。 一応、復活はキリスト教信仰であり、私たちの人生に深くかかわり、大きな希望となるものです。

それは、イエスが私たちの罪のために死んだこと、墓に葬られたこと、そして三日目によみがえったことです。神様が私達を愛して下さるということが目に見える形で起こったことです。

よみがえりについては文学などの芸術のテーマでよく選ばれてきました。 それは、私たちの心を魅了するものであっても、作られた物語です。 しかし、唯一、歴史的事実だと主張するものもイエスの復活です。人々が福音の根幹である復活を否定しているのだ。

当時のコリント(ギリシャ半島の大都市)の人々はギリシャの哲学から影響を受けており、人間の死に関して主に三つの思想哲学があったという事です。一つはエピクロス派と呼ばれるもので、唯物論的な考え方です。快楽主義派とも呼ばれます。死は人間が全く無になる状態だと思います。心も魂も体も無く、存在しなくなるのです。は汎神論に近く、宇宙本能が神であり、人間もその一部です。死ぬとその魂は神の一部に還ります。一個人の人間は消えてしまいます。東洋の思想に近いかも限りません。三つ目はプラトン学派です。この思想は魂の不滅を死ぬと体は滅びますが、魂は体を抜け出して生き続けます。体のは復活しません。形のあるものより形のないもの、目に見えないものに価値があるという考えは、キリスト教の考えとしているとは言えないかもしれません。

しかし、復活は霊魂の不滅を言っているのではありません。今の私達の魂がずっと生き続けるのではありません。体は滅び、私の存在はそこにあります。心もなくなります。しかし、その存在は永遠なる神の御手の中にあります。そこから一個の人格ある人間として新しい体を受け取ってよみがえるのです。ポールは、それはちょうど、種が地に落ちて、種の形は失われつつも、新しい命が生まれると似ていると言っています。イエス様ご自身もこの譬えを語られました。今の肉体は永遠の命を受け継ぐことはできません。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活するのです(42)。地上の私達は植物のタネのようなもので、新しい命を目指しているのです。

復活は神の私たちに対する愛によるものです。罪に汚染された私達は体も魂も滅びるばかりの存在でした。だから、イエスはその命を私達に認める必要があるのです。私達はイエスの命によって復活します。

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