主イエスの足元に座り、み言葉に聞き入る幸い

説教題:「主イエスの足元に座り、み言葉に聞き入る幸い」
聖書:ルカによる福音書第10章38~42節
説教:角田利光 師
賛美:新聖歌349番「移りゆく時の間も」1、2、3 新聖歌388番「いとも良きものを」1、2、3

 イエスさまはマルタの家族を以前から知っていたようで、ベタニアにあるこの家を度々訪れておりました。自分の村に、イエスさまの一行が入って来た時に、喜んで家にお迎えし、もてなしの準備のため、マルタは忙しく働いたのでした。一方マリアは、ただ黙って静かにイエスさまの足元にうずくまり、その言葉に聞き入っていました。二人ともイエスさまを愛していたことでしょう。そして主をお迎えしようと自らが選んでした事、それが、マルタは「もてなし」、マリアは「聞き入る」という形でした。マリアは御言葉に静かに聞き入り、マルタはいろいろなことで忙しすぎて心を取り乱していたのです。二人の歓迎の仕方と結果は大きく様子が異なっていました。おそらくマルタもマリアと同じように、主の足元に座りたかったはずです。出来るならば御言葉を聞きたい。じゃあ誰がもてなすのかという問題があるから、自分がやらざるを得ない。次第にマリアに対する妬みも生まれてきたでしょう。そこでマルタはマリアではなく主の身許に来て訴えます。「主よ、妹は私だけに働かせていますが、何とも思わないのですか。手伝うように言ってください」(40)。訴えの真意はマリアを非難するよりも、むしろイエスさまを非難する心がそうさせたのです。マルタはここで「主よ」と呼んでいてイエスさまの権威を認めているのですが矛盾しています。イエスさまの権威を認めながら自分が主人になり、イエスさまを自分の計画通リに動かそうとしているところに彼女の問題があります。マルタは旅をするイエスさまの疲れや飢えについて多くのことに心を配ることは出来ましたが、あまりに忙しすぎて一つのことに心を注ぐことは出来ないでいたのです。マルタは「イエスさまをもてなしたい」という思いに加えて、「マリアにも自分と同じようにさせたい」という思いが湧き出たところに、マルタの「思い煩い」が生じています。しかし、イエスさまは「マルタ、お前は間違っている。今すぐ止めなさい」とは言わず、「多くのことに悩み、心を乱している」(41)と言われます。イエスさまがされようとしていることは、マルタから家事を取り去ることではなく思い煩いの解決策です。思い煩いの中で葛藤しているマルタに、悩んでいるマルタに、人を許せないマルタに、イエスさまはマルタの名を2度も呼んで諭すように優しく語られます。「マルタ、マルタ、あなたは多くの事に悩んでいるけれども大丈夫だよ。そんなに悩むことはないよ。あなたはとっても大事な働きをしているよ。だから他の人のやり方に踏み込んじゃいけないし、その必要もないんだよ」そうお語りになられるイエスさまの愛の御声が聴こえてくりシーンです。思い煩いの解決法はなにかというと、この箇所でいうと物質的なものに目を向け過ぎるのでは無く、霊的なもの「主イエスの言葉に耳を傾ける」ということを第一にすることです。神さまは聞くことを望んでおられます。問題はイエスさまがそうせよとお命じになったことではなく、マルタ自身が自分に課した内容にあります。自分で自分に課しておいて思い煩っているのです。しかしマルタあなたも来なさい、あなたも聞きなさいと主は命じてはいません。イエスさまはいつもそうです。私たちがイエスさまの教えを聞きたいと心から願うまで待っておられるということですね。優しいです。

 この物語を通して、イエスさまは私たちに三つのことを諭しておられます。一つ目、「必要なことはただ一つだけである」と言われます。私たちクリスチャン生活の中の最優先事項は、主イエスの言葉に耳を傾けること、そこから神の御心を知ることができます。これは神さまを第一として生きる生き方です。神さまを一番に愛する生き方ですね。今のマリアにとって「必要なことはただ一つ」御言葉を聞くことでした。て、マリアの選んだ道は怠惰な道ではなく、祝福の道です。神の祝福は主のお語りになる言葉から来るのです。二つ目、「マリヤは良いほうを選び取った」とおっしゃいました。この家で本当の意味で働いておられるのは、イエスさまご自身です。マリアは自ら喜んで「最善のものを選び取った」のです。業による救いや律法主義的生活を求めるのはとても危険なことです。3つ目、「それをわたしはマリアから取り去ることはしない」(原文)とイエスさまはおっしゃいました。イエスさまの時代、ラビ(教師)が直接女性に教えるということはあり得ませんでした。常に男性が教えを聞き、祈りに専念できるよう、女性たちは見えないところで神に仕えていました。ですからこのマリアの姿はとても異様な光景であったと思います。マルタの目にもそう映っていたかもしれません。しかしイエスさまは、マリアを部屋の隅に追いやることはなさいませんでした。

 自分の判断とやり方でこうすれば喜んでもらえるとマルタは思ったわけですが、イエスさまの思いとはすれ違っていました。イエスさまのためにと思いながら、実はイエスさまご自身から御言葉を聞き、祈る時間を持てなかったのが原因ではないでしょうか。イエスさまは、家事をすることでマルタを責めたのではありません。そんなことをしたら、私たちの日常の行為は何の喜びも、充実も、もたらさなくなります。イエスさまは超多忙の中にあって特に優先順位を改めるよう、求めたのです。神さまへの奉仕が単なる多忙な仕事や作業になってしまう危険をイエスさまはよくご存じでした。私たちの「思いやり」には、「思い煩い」が同居します。思いやりそのものが思い煩いに転化することが起ります。その具体的な表現がさばきです。すぐに人をさばき始める。人を傷つけて自分も傷つく、私たちは傷だらけです。そのとき一番傷ついていらっしゃるお方はイエスさまご自身ですね。そのお方が真実の思いやりに生きてくださり、イエスさまの方から私たちを訪ねてくださいます。その時、主の足元に座り、御言葉に聞くことは何と幸いなことでしょう。

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