説教題:「自分の信じる方を知る」
聖書:テモテへの手紙二 第1章 8~17節
説教:松島基紀修養生
賛美:新聖歌218番「汚れと辱との」1,2,3,4 新聖歌303番「安かれ わが心よ」1,2,3
今日の箇所でパウロはテモテに対して「福音のために、苦しみを共にしてください」と勧めています。この言葉を見たときにテモテはどのように感じたでしょうか。また私たちは「苦しみを共にしてほしい」と言われたらどのような思いを抱くでしょうか。
私たちは生きていく中で出来れば苦しみを避けたいと願うでしょう。ですから聖書がこのように語る時私たちは少し身構えて、それを避けたり抵抗しようとしたりくなってしまいます。しかし、このように苦しみを避けたい、苦しみから救って欲しいという願いは聖書の中にもたくさん出てくるのです。詩篇を見るときに、そこにある祈りには嘆きの祈り、怒りの祈り、助けを求める祈りが多くあることがわかります。またイエス様でさえ、ゲッセマネの上で「私は死ぬほど苦しい」と弟子たちに語り、「この杯を私から取りのけてください」と父なる神に祈りました。私たち人間が苦しみを避けたいと願うのはそれほどに強い欲求なのかもしれません。
そうするとなおいっそう、このパウロの勧めを私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。ここで私たちが心に留めたいことは、パウロが「福音のために」苦しみを「共にしてください」と言っていることです。
この福音のための苦しみは私たちが知る苦しみとは一線を画します。福音のための苦しみとは、愛するための苦しみなのです。それはあの十字架を見る時にはっきりと示されます。
イエス様があの十字架の上でその肉に傷を負い、侮辱され、罵られて恥を受け、父なる神に見捨てられるという苦しみの極みを負われたのは、他でもない罪人である私たちのためです。イエス様はご自身のために苦しみを受けられたのではなく、愛してやまない私たちのために苦しみを受けられたのです。この苦しみによって私たちは救われ、神の子とされたのです。
だからこそパウロは自分の受けている苦しみを受け止め、恥としないと語ったのです。しかしパウロも完全な人ではありません。私たちと同じく弱さを覚える人間です。だからこそテモテに対して苦しみを「共にしてください」と勧めるのです。キリストが私たちにしてくださったように、愛を表すために私の苦しみに寄り添い、参与して欲しいのだと。
私たちも苦しんでいる人がいる時、そこに行き共に苦しめる人でありたいと思います。そうれこそが福音を委ねられた私たちの使命だからです。