説教題:「実によって木を知る」
聖書:マタイによる福音書 第7章 25~20節
説教:斎藤喜樹 師
賛美:新聖歌332番「主はまことのブドウの木です」1,2 新聖歌385番「主よ終わりまで」1,2,3,4
木は、その実によって識別できます。イエスは警告として私たちにこの譬えを語られました。にせ預言者の外見は教師らしく権威あるもののようですが、人々の心を惑わす羊の皮を被った狼だと言われました。いかにも優しくアプローチしてきますが、人を食い物にするモンスターだというのです。実際にイエスの時代、そのように人々を惑わす教えなどがあったのでしょう。現代の私たちも偽物には気をつけなければならないと思います。 また逆に見かけは良くないもの、例えば従来の伝統に当てはまらないもの、大勢の方針と違っているものであっても、良い実を残すならば、それは良い木なのです。イエスの教えは極めて深遠なものでしたが、同時に実践的でもありました。
さて、このイエスの言葉は、偽物についての警告としてまず語られましたが、同時に私達自身を見直す言葉でもあります。あなたも一本の木です。あなたという木はどのような実を結んでいるでしょうか?イエスは、良い実を結ぶために奮闘努力すべきだというよりも、あなたがどういう木であるかが問題なのだということを言われているのです。あなたという存在が良い木であれば、おのずと良い実が成るのです。
良い実とは何でしょう?良い業績ですか?良い家庭や仕事を持つことですか?クリスチャンならば、周りの人を救いに導く伝道の実でしょうか?聖書には具体的に、それがどのような実なのかを語っています。「聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)という9種類の実です。最初に、愛という実があります。敵を愛し、迫害する者のために祈るという愛です。喜びという実があります。自分だけが喜ぶのではありません。人に喜びを与えるのです。平和も実です。争いではなく、和解です。寛容の実とは相手を受け入れる広い心です。親切とは積極的になされる人への配慮です。良きサマリヤ人の話は良い例でしょう。善意もあります。敵意や競争心ではなく良い思いをもって人に接する心です。柔和は、穏やかに人に接し、自制は自己をコントロールする事です。聖霊が私達に働きかける時に私達は良い木に変えられ、このような実を結ぶことが出来るのです。
一方、聖書には悪い実の方のリストもあります。悪い実は、「淫行、放蕩、偶像礼拝、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂」(ガラテヤ5:19,20)などです。敵意、争い、嫉妬、怒りなどの一連の人間の深刻な問題が述べられています。敵対心や怒りは、人間関係を壊すものです。怒りの中には正義を持つものもあって、正しい方向にもっていけば、社会の改善につながりますが、残念ながら人間の怒りの多くはあまり良い方向に行きません。
私達は悪い実ではなく、良い実を作りたいと思います。イエスはその為には木そのものが問題となると言われるのです。人間はもともと罪人なので、本来は悪い木です。イエス様の周りに集まっていた人々は悪い実を結ぶ人たちでした。けれども彼らは変えられていきました。聖書には良い木の例を述べています。「その人は、流れのほとりに植えられた木のよう。時にかなって実を結び、葉も枯れることがない。」(詩編1:3) 中近東の地は乾燥地帯で、雨が降らないので草花はほとんど生えません。けれども川の流れのほとりに植えられた木は川の水分を吸ってその葉を青々と生い茂るのです。 そして時が来れば実を結びます。川の水は命の水です。私達は川のほとりに植えられた木のようです。日ごとに神の命の水を頂いて葉を茂らせ、実を結ばせることが出来るのです。