説教題:「人生の礎(いしずえ)」
聖書:マタイによる福音書 第7章 21~27節
説教:斎藤喜樹 師
賛美:新聖歌308番「高き岩よ」1,2,3 新聖歌321番「浮世の風と」1,2,3,4
家にはいろいろな形がありますが、やはり共通して一番重要な部分は土台だといってよいでしょう。主イエスがこの話を通してお語りなりたかったことは、人生の礎という事です。いざという時、試練に遭われるとき、土台というもの、心のよりどころというべきものを持っていることは大切なことです。また、普段からこの土台があることによって、私たちの生活が豊かにされます。
ここには岩の上に建てた家と砂の上に建てた家のことが話されています。岩の上に建てた家とは、イエスの言葉を聞いてそれを行う者、砂の上の家とは聞いても行わない者です。主イエスは「私に向かって主よ、主よ、というものが皆天国に入るのではない」と言っています。主よ、主よ、と言いながらも神のみ心を行っていない場合があるのです。「主よ、主よ、」というフレーズは信仰の熱心さを表すものです。イエスがこの表面的に信仰熱心に見える姿のうらに人間の罪があり、過ちがあることをおっしゃるのです。彼らは熱心な働きをしました。信仰の正しい教理も知っていました。しかし、本当の意味で父なる神のみ心を行っていなかったのです。神のみ心を行うこと、実はそれこそイエスが5章から7章にかけて教えておられたことです。イエスの福音(グッドニュース)に生きるということです。神の愛に生きるということです。あなたの活動がどうということではなくて、あなたの生活そのものが父なる神のみ心によって基礎づけられることです。心貧しく生きることの大切さ、悲しみにあっても絶望しなくてもよいこと、平和を作ること、柔和に生きること、何があっても、父なる神に信頼すること、必要ごとに神に頼ること、神の恵みが現れることに集中すること。
イエスは土台とは、み言葉を聴いて行うこととだとイエスは言われます。み言葉を聞くことと、行うことを切り離して考えることは出来ません。み言葉を実際に実行しようとすれば、自分に絶望するかもしれません。自分の至らなさ、罪深さ、無力さ、自分の貧しさを感じて失望します。でも、だから神に祈ります。主よ、助けてくださいと神に頼ろうとします。神は必ず助けて下さいます。実は、そのことが神との絆を深めます。この絆が嵐の時の力強い土台となるのです。そして、不思議なことですが、イエスとの絆が深まるときに、他の大切な人との絆も強められるのです。社交的になるわけではありません。しかし神との関係が深められるときに、隣人との関係も真に深められるのです。神は愛であるからです。
人生の家は一度建てたらお終いではありません。ある意味で建て続けていくのです。若い人でも、60代でも70代でも80代だって、まだ建てていくのです。その時に土台を大事にしてください。み言葉に聴いて行うことです。もちろん、完璧な準備などあり得ません。私だって、自分の土台がしっかりしているか分かりません。いざとなったら、うろたえてどうしてよいかわからなくなるでしょう。しかし、その時は土台に足を据えて、神に頼ることができます。自分が土台に立てれば他の人も支えることができます。自分がゆらゆらしていたら他の人をしっかりつかんであげることはできません。キリストが私たちの土台となってくださるのです。